茶の湯文化は、本来、日常的な生活様式を美的、哲学的、芸術的、科学的に取り入れた総合文化として昇華を見たものだと思います。
喫茶文化は、中国・唐の文化として遣唐使たちによって持ち込まれ、平安朝の嵯峨天皇の時代に繁栄を見たのですが、その後、我が国では、鎌倉末期に栄西が宋から抹茶が持ち込まれたことによって、新しい展開を見ました。
禅宗や仏教との関係として、修行としての振る舞いに取り込まれ、庶民への健康性や栄養性をもった施茶、一服一銭としての喫茶が商売としての一面も持って発展をしました。
しかし、鎌倉から室町幕府に変転する時代に、バサラ大名の佐々木道誉を代表に美術的、習俗的取り込みが成されたといえます。
それ故に、足利尊氏は「武家諸法度」で、茶の湯の集まりを禁止しています。
室町時代になると将軍様たちが中国貿易としての付加価値のついた美術品や工芸品を輸入して、御殿で喫茶文化を美術品鑑賞と絡ませて発展させたと言えます。
足利義政が東山文化として、今日のグローカル性ある日本文化の源泉と言って良い発展の礎を追及したと私は思います。
しかし、応仁の乱によって、世は乱れましたが、一休宗純ら知識、教養人が地方に散って、新しい文化の芽となったと言えます。
今日の京田辺にある一休寺と呼ばれる酬恩庵が文化サロンとしての代表で、今日的に言えば、文化創造の地であったと思います。
侘びの茶も、そのサロンに参加していたであろう村田珠光に始まるのです。
ここまでの概観によっても、如何に茶の湯が、ハイカルチャーとPOP-Kitschーサブカルチャーとの界を紛らかしながら発展してきたかが判ります。
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