オタピー茶の湯は、日常茶飯の俯瞰思考を大切にしていると述べて来ました。
私にとって、喫茶、茶の湯の時が、俯瞰思考に最適なのです。
ポルトガルの宣教師・ロドリゲスが、日本教会史に、茶室を「市中の山居」と記しています。
私は、実に、当を得た表現だと思います。
江戸初期の時代の茶室の持つ意味について、外国人による優れた観察眼と、私は、茶の湯も含めて、喫茶の場は、「市中の山居」と言いたいのです。
それ故に、オタピー茶の湯としては、喫茶の場が「市中の山居」感を持つことを必要条件としています。
「市中の山居」と言う表現には、西行法師的な隠遁の庵とは異なった意味が込められています。
人里離れた隠遁の場ではなく、日常茶飯の個人的及び仕事も含めた社会的な生活環境の場に在っての表現として、「市中の山居」があるのです。
つまりは、日常茶飯の社会生活をしながら、「市中の山居」で、「隠遁の庵」の境地に入ることが出来るのです。
「市中の山居」で、オタピー茶の湯的喫茶、茶の湯の所作に勤しみながら「俯瞰思考」に誘導されていくのです。
その場が、「主客同坐」であれ、「独坐観念」感を持って、「俯瞰思考」に基づく「直心の会話」が楽しめたら、最高のオタピー茶の湯の在りようとなります。
六租慧能の禅の境地と共通する心と思います。
慧能禅師の心は、マサニ、オタピー茶の湯の心に通じているのです。
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